徳川家康と風水その参:裏鬼門という言葉もありますが、、、
初期の徳川幕府の指南役であった天海が、幕府の永年の繁栄を願い、東北の方位に異常に気を遣ったことを、前回書きましたが、東北の反対側にもまた、対策を施しています。
日本の家相学では、「裏鬼門」とも呼ばれる方位になります。(風水にはそういった言葉はありません。)
天海は、東北と正反対である西南の方位にあたる場所に芝の増上寺(徳川家菩提寺)を大造営しています。さらには、目黒不動も西南に配し、まさにとどめを刺しています。
増上寺塔赤羽根夏53景~歌川広重「名所江戸百景」より
西南は風水では坤(こん)の卦となり、家庭・母親・日常生活に関したことなどをつかさどっていると説きます。母親=家庭の要ということで、家族の平和のシンボルとなります。また家康の本命卦からも中吉方(延年)になりますので、徳川家のお家安泰・子孫繁栄のためにも、天海は西南方位もゆるがせにしませんでした。単に、裏鬼門の厄除けという意味以上に、こういった意図が感じられます。
ちなみに、西南方位は未申といいます。季節にとれば新暦の7月7日の小暑から8月8日の立秋をへて、9月7日の白露までの時期に当たり、1日にとれば、午後1時から3時が「未の刻」で3時から5時までが「申の刻」に当たります。また、これは夏・昼の陽気が終わりを告げ、いままさに陰気に変わろうという時に当たります。そういった、変化途中の不安定な要素をやり過ごすためにも、西南も封じておく必要があったのです。
さらに天海は、家康の死後、江戸城からみて北にあたる日光に東照宮を建立しました。これは、家康の遺言とも言われていますが、天海の指南によることは間違いないでしょう。北は十二支でいえば、「子」、季節でいえば、冬で、風水では坎(かん)の卦にあたり、部下(次男)、和平、仁慈などを意味します。また、北は臓器の性質としては生殖器であり、これも徳川家の繁栄を意味する要素です。このように、東照宮を建立したのは、徳川家がよき部下に恵まれ、諸大名の謀反を防ぎ、お家の安泰を期するためであったということがわかります。
「東照」とは、「東の天照大神」という意味で、比叡山と東叡山(上野寛永寺のこと)との関係と同じく、朝廷の守り神である天照大神に習い、家康を東国の天照として神格化したものです。陰陽五行説では、紫微宮に天帝が住み、そこから生命を司る力が流れ込むといわれます。紫微とは、北極星のことで、天帝は文字通り、北の果てに住むとされます。天照=天帝となった家康は、江戸のはるか北方で、江戸とその幕府を見守ることになったのです。
家康は、このように天海と組んで、都市レベル、国レベルの風水を行いました。そのおかげか、徳川幕府が270年も続いたのは、紛れもない事実です。