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徳川家康と風水その弐:風水師としての天海と東北方位

徳川家康の政治の裏には、黒衣の宰相といわれた天海大僧正がいたことは有名ですが、実は彼は本能寺の変で有名な明智光秀だったという説があります。ここでは詳しく書きませんが、インターネット上にかなりの数の記事がありますので、一度検索してみては?わたくしとしては、50:50の信憑性と思いますが、非常に面白いです。

さて、この天台宗の僧侶である天海ですが、比叡山にて修行中に、風水をはじめとした大陸の学問を修め、当時最高峰の知識を持った人物だったことは間違いないでしょう。

天海は、徳川家康、秀忠、家光と三代の将軍に仕え、政治の表裏に多大なる影響を及ぼしました。その数々の施策の中心目的は、徳川幕府の永代にわたる存続です。では、天海は一体どんな風水を施したのでしょうか?

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↑天海、家光、家康とされる板絵


よく取り上げられるのが、上野の寛永寺の建立です。これは、江戸城の東北、いわゆる「鬼門」の方位にあり、わかりやすいので有名なのですが、実はもっと深い意味合いが隠されているのです。

それは、前回の記事で書きました、東北の基本的な性質、「はじまりとおわりの境目」です。季節で言えば、晩冬~初春、時間で言えば、丑寅(陰の気に支配される夜が終わり、朝の陽の気が始まる時間帯)を表し、総合的には「一時的な停滞」「相続」「変化の兆し」をつかさどる方位ということになります。

天海が、「鬼門」という言葉を使っていたかどうかはわかりませんが、風水学として考えれば、徳川幕府の安定のために、この「変化」の方位である東北に、とりわけ気を遣っていたのはまさに正解と言えます。
また、家康本人は、本命卦で見ると東北は大吉方位(天医)ですが、彼の本拠地である江戸城が、東北が凶だったことも、東北という方位の守護を凄まじく意識した理由でしょう。

江戸幕府では、将軍家に世継ぎが生まれなければ、御三家から次期将軍を迎えることになっていましたが、基本的には尾張か紀伊から迎え、水戸は最後の最後という順番がありました。これは、天海の遺言によるものと言われています。

「水戸からお世継ぎを迎えた時、徳川家の世はは終焉する。」

ピンと来ました?そうです。水戸藩は、江戸からみてまさに東北に位置し、そこから世継ぎをとるというのは、「相続に変化をもたらす」ことに他ならないのです。
果たせるかな、最後の将軍である十五代慶喜は、初めての水戸藩出身の将軍であり、大政奉還、明治維新によって徳川家270年の世は終焉を迎えたのです。

以上のように天海が陰きわまって陽に変ずる東北方位を大事にしたのは、時代の変還、時流の変化を恐れたからでしょう。事物がおよそ変化変転する時には、内と外との力関係の均衡がとれなくなるものです。つまり、外国との往来を鎖国によって抑制したのは、そのうちの外的圧力を断ち切るためだったのです。
 

assisted by 近代図案